なんのために学ぶのか(著者:池上彰)を大学生が読んだ感想

この本を読もうと思ったきっかけ

 私の趣味は読書であり、常に日ごろから様々なジャンルの本を読んでいます。そしてある時ふとあることが頭によぎりました。私は何のために読書をし、そしてそこから何を学んでいるのか、その学んだことは本当に知識として生かされているのだろうか。

 新設された図書館で次はどんな本を読もうと眺めていた時、この本にたどり着きました。「今の僕が考えている内容に答えてくれる本なのではないか」とパラパラとページをめくりそう思いました。

 こうして考えてみると、私自身しっかりとした目標を持って読書に挑むことはこれが初めてと思います。普段から趣味や何かを学ぶ目的で読書を行っている方はぜひこの本を読んでいただき、読書とは、さらに学ぶこととはといったことをあらためて確認していただけるかと思います。

 

 内容の紹介・私自身が特に印象に残ったこと

 1.構成について

この本は1~5章で構成されています。全体的にはなぜ人は勉強をしなければならないのか、なぜそのためには読書が必要であるのかを池上彰さんが具体的な事例をもとに解説してくれます。

 4章は読書家であり、地震もたくさんの本を出版している池上彰さんがこれはぜひ読んでほしい本を紹介したコーナーとなっています。

 紹介される本はこの本自体のテーマに沿った内容となっており、池上彰さんだけでなく、他の人物からのなぜ学ぶのかということについて考えさせられるものであり僕自身、一番刺激が強かった章でもあります。

 後ほど紹介しますが、ショウペンハウエルと出口治明さんの紹介されている著書をぜひこの後読んでみたいなと思いました。

 例外と言っていいのかわかりませんが、第3章ではこうして「池上彰」ができあがった、というフレーズから始まり、著者が歩んできた人生が語られる章になっています。

 池上彰さんと言えば、ニュースをわかりやすく解説する人として有名であるといった印象を持っていると思いますが、最初はNHK記者としてキャリアをスタートさせたそうです。(昔の方ならご存じかもしれませんが…)

 記者からニュースキャスターに映った経緯、貴社としてどのように仕事に向き合ってきたのかなどもわかりやすく記されており、池上彰さんのファンの方、記者という仕事に興味をお持ちの方も楽しく読める本なのではないかと思います。(実際に私も記者になりたいと考えているため、記者という仕事がそういった仕事なのかを池上彰さんからの視点で体感することができ、非常に参考になりました!)…すみません紹介する章の順序が逆になっていました。

 

 印象に残った内容について

2章の中で特に印象が残っていることは、一つの出来事から物事を多角的にみるということの重要性です。

 ここでいう出来事は日ごろのニュースなどです。この文章を見たとき、最初に私は、そんなことは大学生にもなればしっている、つまりは、物事を表面的だけ見るのではなく、その根本的な原因や背景を考えることだ、と理解したつもりでいました。

 しかし、私たちは普段はそのように理解しているつもりでも、実際に私たちには想像もつかないような凄惨な事件や事故が起きた場合、こういったものの背景を考えて内容を冷静に判断できる人はどれほどいるのでしょうか。

 例えば、大津市の保育園児死亡事故。対向車を走る車と右折しようとした軽自動車が衝突し、そのはずみで車が歩道に突っ込み、保育園児2人が死亡した事件です。見るからに痛ましい事故であり、多くの人が悲しみました。ある人はどこにもぶつけることができないような怒りの感情に駆られてしまったのでないでしょうか。

 しかし、ここで感情的に事故を処理しては本質的な問題の解決には至らないと池上彰さんは訴えます。事故が起きた道路のシステム、車止め設置などはきちんとなされていたのか、そもそもなぜ園児は集団で外にいたのか、保育園には園児が運動できる範囲の庭が設置されているはずであるがそれがないために外で散歩していたのか、ならば少子化の影響で受け入れ人数が不足しているが施設が充実している幼稚園に園児を移動させればどうなのか。

 このように最終的には日本の幼児教育の在り方まで問題意識を深めていくことができます。私は事態を多角的にとらえることの重要性は何となく理解していたのですが、こうした具体的な例をとりながら学んでいくといかに多角的に物事をとらえることが重要であり、困難なものであるかが理解できました。

 少し長くなってしまいましたが、他にも平成から令和に改元が発表され、「令和」から考えるもののみかたの例があがっています。こちらも、令和の意味、日本の言霊信仰がもたらすプラスの側面とマイナスの側面、原発問題への影響を考える、といった具合にどんどん考え方が広がっていきます。普段のニュースや物事から様々な問題に焦点を当てて考える必要性を池上彰さんは伝えたかったのかなと私は実感しました。

 次に、高校生と大学生の違いについてです。

 私の授業のゼミでもこのテーマについて話し合ったことがあります。話し合いに関しては、大学生から一人暮らしをする人も多いし、自立しているイメージだから大学生は学生、つまりは大人に一歩近い存在。

 一方で高校生は義務教育ではないもののほとんどの人が通る道であるため生徒である、つまりはまだ自立をしていない社会から守られた存在とゼミのみんなは言っていた記憶があり、私も何となくそのように考えていました。

 ここで池上彰さんは少し違った考え方をしており、感心させられました。いかにも、池上彰さんは高校生は生徒、大学生は学生と同様に定義しています。

 しかし、高校生が使用する教科書は文部科学省が検査し、認定されたモノだけがいきわたる。つまり、学ぶ内容はみんな同じでありその内容を理解していれば評価される、このことから高校生は生徒と呼ばれるといいます。一方、大学生が使う教科書はその授業を行う教授が自ら判断します。学問には様々な学説がありそれらを支持する派閥も異なります。つまり、教授が支持する学説によって取り扱う教科書が違ってくるため、自分が学んできたことはある人にとっては間違いであると指摘されかねないといいます。

 池上彰さんは大学とは正解がないがない学問を学ぶところであるといいます。そのために自ら事実を検証し、それを証明するために勉強に励まなければならない。自ら進んで勉強をする大学生は学生であると指摘しています。

 

 4章で印象に残っていることは、読書とはなにであるかということです。

 私は読書が趣味になったのは大学生になってからです。様々な学問分野の授業を受けていく中で、自らの専攻する分野に限らず、幅広い教養というものが学生にとっては必要であると感じたからです。

 しかし、教養を身に着けるためにむやみやたらに読書を行うことはある意味でバカになっていると「読書については」で著者のショウペンハウエルは述べています。

 一体どういうことか!私は自ら進んで読書というものに励んでおり、確かに少しではあるがそれなりの知識はついていると自負していると考えているかです。しかし、哲学者のショウペンハウエルはこう述べています。「読書とは他人の考えを知ることであり、相手の思想を反復しているにすぎない。だからものを考えるという行為はほとんどなされないのだ。ゆえに読書にふけるものはしだいに自分で考える力を失う」

 ただ、ショウペンハウエルは読書それ自体が意味がないというのではなく、読み終えた後に自分なりにしっかり熟考することが大切であると述べています。食べ物も食べるだけでは栄養にならず、体の中でじっくり消化し栄養に変化するのと同じように。

 私がブログに読書感想を投稿しようと思ったきっかけはこの考え方を知ったのがきっかけです。考えてみれば確かに私はただただひたすらに目的もなく読書をし、それ自体に満足していました。しかし、その前に読んだ本の内容を聞かれるとうまく答えることができないと思いますし、難しい本を読んでいるときはその内容を友達に聞かれても答えられなかった経験があります。

 その本を本当に理解したということになるにはやはり読み終えた後で改めて内容を考え、自分なりの意見をもつ。そしてこうして文章化してみたり、誰かに話してみたりと内容をアウトプットしてみる。こうしたことが読書をより充実したものにさせるのではないかと感じます。

 また、4章の最後に教養についての面白い記述がなされていました。

 先ほど、私は幅広い教養を身に着けるために読書をし、それが趣味となっていると話しましたが、実際に「教養」とはなにかと聞かれると知識をたくさん身に着けた人が備えているものというイメージを持たれる方がいるかもしれません。

 しかし、知識=教養ではないと「人生を面白くする本物の教養」の著者である出口治明さんは述べています。確かにある程度の教養を身に着けるためにも一定の知識が必要ですが、知識はあくまで道具にすぎず、決して知識を増やすことが目的ではないということです。

 知識は身に着けるものであって、そこから先はそれをどのように使うのか。その知識というツールを活かし様々な課題に挑戦する姿勢そのものが教養であり、そういった人々のことを教養人と呼ぶのではないかと私は感じます。

 こうして考えると知恵と教養はよく似ている言葉であるということが分かります。知恵も知識から芽生えるその人独自の考え方です。多くの物事を知っていることはコミュニケーションや大学の課題をする際に参考になると思います。しかし、知識を既存のものに応用するだけでは教養を身に着けているとは言えません。実際にいちから何かを作り出すために自分が持っている知識を最大限に発揮することができる。これができてより高度な知識の活用ができることのになるのではないか。私はそう思います。

 

 いよいよ最後の5章についてです。テーマは生きることは学び続けること。

 いかにもこの本自体のテーマを総括的にまとめていることが感じられます。さて、学ぶことができるのは人間の特権であると言われますが、技術の発展によりコンピュータ、AIも学習が可能となりました。

 AIは記憶の達人であり、その記憶から導かれた最適な答えを我々に提案してくれます。ミスも少なく、分野によっては人間よりも優れていると評価される場合もあります。

 しかし、池上彰さんは、人間がわかっていないとAIも役に立たないといいます。アメリカの大学入試に使用されるSATの平均点が下がり続けていることが問題視され、1980年代に教育改革が行われました。成績が上がらないと教師を首にするという大胆な政策です。そのクビにする教師の選択をAIが担っていました。

 しかし、後にクビになることを恐れた小学校教師が点数を書き換えていたことが発覚します。結果、中学校の先生は全員が成績がいい生徒を受け持つという状態のため職を失った中学教師が多く発生してしまいました。

 AIを開発した人は教育改革が先生に与える影響を把握することができず、結果、不当な解雇が続出した結果になったといいます。

 AIは結果をもとに最適な判断を下し、そしてそれが正当であるかのように見えます。この事件は別にAIが暴走した!なのではなく、AIを使用する際は、AIがもたらした結果を人間心理の側面から検討する。つまり、機械的な判断がどのように人間に影響を及ぼしたのかを事後的に検証し、問題の早期発見につながるようにしなければならないと思います。

 また、教養についてもこの章で触れられています。日本人の多くは、英語を勉強しているにもかかわらず、海外に行くと英語が喋れないと嘆きます。それは日本の英語教育が英会話の授業を問い入れていないことが原因と指摘され、小学校の低学年から英語の授業を取り入れ、改革を進めています。

 しかし、日本人の英語がしゃべることができない原因は教養不足にあると池上彰さんは指摘します。海外では会話のネタでよく、オペラや絵画といった話題がよく出るそうです。日本人はそれらのことを知らない。つまり、海外から見ると教養がなく、会話が進まなくなるといいます。

 確かに、日本人は一定の文法を取得しており、少し練習すれば海外の方たちと喋れるようになってもおかしくはありません。しかし、話す内容についていけない。教養の必要性を提言する池上彰さんならではの視点で分析されており、ハットしました。

 逆にいえば、英会話が苦手であっても、海外に通用するような教養力を持ち合わせておれば、会話は何とか続くのではないかと思います。教養を深めることはこうしたコミュニケーション力の向上にもつながるかもしれないですね。

 では逆になぜ同じアジアでも、日本人は英語が話せない割合が高いのか?それは日本は自国語で授業を受けられる珍しい国であるからです。

 ほかのアジアの大学などの授業はすべて英語で行われるため、ほとんどの学生は英語が話せます。そして授業のほとんどが英語で行われる理由は、学術用語がすべて英語で訳されているからです。

 しかし日本の場合、江戸時代に大量の学術資料が入ってきた際、識者たちが懸命に日本語に翻訳し、わかりやすく伝えようとしました。結果、日本の学校では日本語行うことができるようになったというわけです。

 そうか、日本人が英語に弱いのも過去の偉人が懸命に各術用語を日本語に訳してくれて日本語で授業が受けれるようになったからでもあるというわけか。日本人の海外から文化を取り入れ、自国の文化の一部にしてしまう。その能力には脱帽してしまいますが、現代の英語の重要性を考えるともやもやした気持ちになりますよね(笑)。まあ、海外の学術用語や文化を取り入れるうえで、理解が深まり、それぞれの学問の発展に寄与した場合もあるのと思うので結果オーライ!

 

 最後に学ぶとはについて書こうと思います。まず池上彰さんは「学ぶとは決して誰にも盗られることのない財産である」と述べています。

 例えばスラム街で生きる少年は日々とるか取られるかの瀬戸際にあります。その少年が学びをしり、学びとは何なのかと聞かれたら、決して他人に取られることがないものと答えたそうです。

 

 何のために学んでいるのかよくわからないという学生も多くいると思います。しかし、その学んだことがたとえ役に立たなくても、それは自分自身のかけがえのない財産になるそう思うと無駄なことを学ぶということは一つもないということがよくわかると思います。私自身もこの教訓を胸にこれからも日々読書を続け、新しいことを学んでいこうと思います。

 以上で「何のために学ぶのか」を大学生が読んだ感想を終わりにします。だらだらとした文章になってしまい、これを読む人はおそらくいないと思います(笑)だけどこうして自分が読書をして考えたことや感想を記録に残す。一見自分でもこんなことをして意味があるのだろうかと今更疑問に感じてきました。しかし、学ぶことは財産になる。この財産をこのブログに書きだして可視化できたことは意味があることだと思います。これからも読み終えた本の感想や考えたことを自分のためにもブログで発信しようと思います.